ムルディカ [オピニオン]

■4.植民地復活を狙うイギリス、オランダ■
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog036.html

■1.カリバタ国立英雄墓地に祀られた日本人■

 ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地は、日本軍降伏後、4年
5ヶ月におよんだイギリス、オランダとの独立戦争で、特別な功労
を立てて戦死した人々が祀られている。この中に11名の日本人が
一緒に手厚く葬られている。[1]

 1945年8月15日の日本軍降伏後も現地に残留して、インドネシア
独立義勇軍に身を投じた人々は、1~2千人程度と推定されている。
400名程度が戦死され、そのうちの32名が各地区の英雄墓地に
祀られている。また独立50周年となった平成7年、残留日本兵
69名に対し、渡辺インドネシア大使から感謝状が贈られ、スハ
ルト大統領は官邸に招いて、お礼を述べられた。[2,p109、3]

 これらの人は、何を思って、異国の地に留まったのだろうか。

■2.独立への願い■

 インドネシアがオランダの植民地となったのは、1605年、それ以
来、3世紀半にわたって、人口わずか0.5%のオランダ人が全生
産額の65%を独占するという収奪が続く。

   1905年に、日本がロシアを破ったことは、アジア人もまた
  西洋をうち負かすことができるほど強くなれるという信念を
  強化させた。それ以降、インドネシア人は、大国として発展
  する日本にいっそうの注目をそそぎはじめた。(インドネシ
  アの歴史家サヌシ・パネ、[4,p242])

 独立を願う民衆の間には、いつしか、「いつか北から同じ人種が
やってきて、とうもろこしが芽を出して実をつけるまでに(約3ヶ
月半)インドネシア人を救ってくれる」という予言が生まれた。




■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

日本軍が降伏した1945年8月15日の二日後、スカルノとハッタはすかさず独立宣言を行う。
18日には、インドネシア共和国憲法を採択し、それぞれ大統領、副大統領に就任した。

しかしイギリスとオランダは、植民地の復活を狙いインドネシアに軍隊を派遣してインドネシア人を弾圧した

オランダとの独立戦争は1949年12月までの4年5ヶ月も続いた。
兵員こそ200万人もいたが、武器は日本軍から手渡された数万挺の小銃が中心である。

オランダ軍は都市への無差別爆撃なども行い、80万人もの犠牲者、1千万人を超える負傷者が出た。
インドを始めとするアジア諸国がオランダを非難し、国連安保理事会や米国議会も撤兵勧告を行った。
全世界の世論に押されてオランダは再植民地化を諦めたのである








市来龍夫ジャワに散る


1949年1月3日ジャワ東部のスメラ山麓ジャサリ村で、インドネシア国軍BRIGADE-S旅団旗下の特別ゲリラ隊と完全武装のオランダ1個中隊との間で、激しい戦闘が行われた。

特別ゲリラ隊は市来龍夫(現地名アブドラ・ラハマン)を隊長とする日本人・インドネシア人の混成部隊で、マグレサリーを拠点としてゲリラ戦を行っていた。
 
当時はインドネシア独立も相当に危ない情況と なり、首都ジョグジャカルタはオランダに奪われいて、スカルノ・ハッタ両氏はオランダに逮捕されてしまう。 


戦況は泥沼で、前年12月には国連安保理から即時停戦を求められていた。


※この1月3日の戦闘に参加した広岡氏の手記より抜粋します。



ダンピット村説は、この日の戦闘にこそ参加していたなかったが、特別ゲリラ隊小野氏の手記が、元になっていると広岡氏は指摘している。

前年末よりオランダ軍が、マランへ急進攻してきて激しい戦闘となった。 オランダ軍は戦車に戦闘機とインドネシア軍を圧倒していた。 

逃げてきたインドネシア軍の兵を見ると、武器を持っていない。「どうしたのだ?」と聞くと「敵の進撃が速すぎで武器は埋めてきたと」と言うではないか。 
「武器もなくてどう戦闘するのだ」というと敵さんから奪うと嘯いていた。  

特別ゲリラ隊はこれはイカンと思い、マランへ牛車10台と住民を動員して、埋めてあった武器と砲弾を取り出しに行った。 ひとりの犠牲も無かったのは幸運な事だった。 この後各方面から、この砲弾をもらいに来たという。


元旦には全員で椰子酒で乾杯して、東方を拝み武運長久を祈った。 そしてトレン街道に戦車地雷をしかけて敵装甲車とトラックを吹き飛ばした。

その報復だろうか、完全武装の1個中隊がマグレサリー拠点を目指して進撃中との情報が入った。

敵の情報収集もなかなかである。 


マグレサリーはスメラ山麓の人里では最奥部。 特別ゲリラ隊の秘密拠点あったのに、どうして分ったのだろうか.。 薄気味悪さを感じつつ1月2日は、ボポンの村長宅で一泊して手厚いもてなしを受けた。味方は約35名、重機関銃2丁と摘弾筒2筒、小銃が10丁、戦車地雷2個という劣勢である。
 

夜になって見張りを厳重にして、日本人だけで集って明日の作戦を話し合ったが、妙案もなかった。 

1月3日朝ジャサリ村を横切ろうととすると、敵は村一帯にすでに展開していた。 

ボポン村出発時に次期隊長となる杉山は、ジャサリ村に下る事に反対したが、市来は距離わずかなジャサリまで下りても問題ないと判断した。 

敵とは逆方向へ行くのだから問題ない、と思うのは当然だった。 だが杉山のカンは鋭かった、なぜか敵がいる2つの部隊に挟撃されたのかもしれない。  

いきなり重機関銃同士の激しい撃ち合いが始まる。 味方の機関銃は腐敗が激しくて度々弾づまりを起こす、その度にハンマーとドライバーで弾を取り出して射撃を続けるこんな有様だった。


摘弾筒に撃つように催促すると「弾をもってる兵がいなくて(逃げた?)弾無しだ!」こんな怒鳴り声が返ってくる、敵はいよいよ2丁の重機関銃を取りか囲むように肉薄してくる。 このままでは全滅だ。

ふと気が付くと市来隊長の軍刀を持っている兵がいる。 


「隊長の軍刀をどうしたのだ?」すると「隊長は私の小銃を取り上げ、かわりに軍刀をあずけて小銃隊の方へ走っていきました」と言うではないか、慌てて「市来さーん」と3連呼したが返事は無かった。

味方小銃隊は、敵味方の重機関銃同士の間に挟まれて、身動きが取れなくなっていた。 

市来龍夫は味方の小銃隊を援護せん、と弾丸驟雨の中を走っていったのである。 

だれかが戦車地雷を敵陣に投げ込んで物凄い爆発音がした。特別ゲリラ隊も引き上げを始めた。 

市来龍夫は小銃隊と合流したのちに、敵情はいかにとトウモロコシ畑から顔を上げたとたん、頭部に 被弾して即死。 痛恨な事にこの日の唯一の戦死者になってしまった。 

 
ここからがさらに市来の受難だった。 後送するようにインドネシア兵2名に頼むが、あまりにも激しい戦闘だったために市来の亡骸をがけ下におとしてしまったようで、どうにもならないと判断してそのまま逃亡してしまった。 


 マグレサリーの拠点に帰ると〝市来隊長はダンピット村で負傷手当中〟との情報があったので人を派遣してみるが、一向にその様な事は無く、特別ゲリラ隊はあせりはじめていた。

1月4日・5日と再びジャサリ村(ボポン?)を捜索するが手ががりなし、6日の朝なってやっと市来龍夫の亡骸が見つかった。 やむをえずその場でイスラム式に埋葬した。


マラン市の英雄墓地に分骨されたとの説もあり。

市来龍夫43才、大東亜開始前よりラジオを通じて、インドネシア国民に独立を呼びかける放送をしていたという。 そして日本がはたせなかった約束を果すべくインドネシア独立戦争を戦った。  彼が見たかった栄光の日、インドネシア独立のわずか10ヶ月前の事であった。




インドネシアと市来龍夫


市来龍夫は、明治39年熊本県人吉の多良木生まれ、熊本士族の子孫である。 
子供のころからおとなしくて成績の良い子だったが家庭は複雑で母姓の樅木(もみのき)を名乗っていた期間の方が長かった。小柄だが目の大きな男、市来を知る人は声をそろえて言う。

昭和3年にはスマトラ島のパレンバンに渡り、写真技師として勤めていた。 母への手紙の中で「自分は人より少し多く感じて、人より少し多く悩む」「真面目に働いていれば、いつか道は開ける」と書いているのは彼の人柄を偲ばせる。

インドネシアの為に戦った市来だが、インドネシアの第一印象はあまり良くなかったようで「南洋は野獣の集会のようだ」とコキおろしている。 インドネシア人、オランダ人、華僑全てに呆れていたようだ。

その後にジャワ島のバンドンに移り住むが、人吉から呼び寄せた弟が自殺してしまうなど不幸があり。何となく邦人社会から離れていった。


そしてイティというスンバ娘の家のあるスメダンに転がりこんだ。 
スメダンはバンドンよりさらに山奥にある町イティはおとなしくてでしゃばらない娘(おそらく市来の知人証言)写真を見る限りでは痩身で美人、市来同様に目の大きな娘です。
その後はバスの車掌をしたり、エロス写真館などにも勤めたが、長続きはしなかったようだ。

しかし、この頃からインドネシア人に対する感情が変わってきたのではないだろうかと思う。

市来は時々バンドンの日本人会館へやって来て日本の新聞を読み、インドネシア語に訳して地元の新聞に匿名で投稿していたという。


独立戦争中に出会った日本人は、市来のイ語が現地の人間よりも上手かったと驚いていた。
この頃からますます日本の南進の期待が高まり、市来の投稿もオランダ当局のマークするところとなる。
市来はイティを連れてジャカルタへ移り、〝日蘭商業新聞〟の記者となった、そこで盟友となる吉住留五郎と知り合う。


市来は一時所要で帰国するが、オランダ政府によって危険人物と見なされて、ビザ発給を拒否される。
イティを残してきた市来の気持はどんなに切なかったろうか想像も及ばない。
やがて市来や吉住は、愛国社の岩田愛之助と交流を持つようになる。

岩田は官・政・軍の黒幕的存在の大物である。 岩田は市来がどんな大物にもお世辞を言わない実直さを気に入っていたという、市来も驕らない岩田の性格を敬愛していた。

そして岩田はイティが困らぬようにと人脈を通して、ジャカルタで幾らかの金銭が渡るように助けたと言われる。
市来はこの頃に東京外語でイ国語の教師をしていたとの説もあるが、事実のようで他にも数人が通訳としてジャワに派遣されている。


午前中は外務省に、午後は参謀本部第二課に出勤していた。 参謀本部では中野学校出身の柳川宗成大尉と机を並べている、おそらく油田のあるパレンバンに詳しい事とイ国語に通じていた市来の能力と経歴を求められたのであろう。そしてラジオを通じてインドネシア国民に独立を呼びかける放送を作っていた。


運命の昭和16年12月8日、日本は開戦したのだが、柳川大尉は「市来さん第二の故郷に帰ろうや」とインドネシア行きをうながしたのである。市来は16才年下の女性と結婚したばかり、柳川大尉も新婚であったというから運命は残酷なものだ。



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