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新しき年に [万葉集]



新しき年の始めに思ふどち い群れてをれば嬉しくもあるか  

道祖王、万葉集19-4284番



新年会で、気の合った仲間が集まるのは嬉しいものだ



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中国「天安門大虐殺」の悲劇 [オピニオン]

■中国「天安門大虐殺」の悲劇■

「天安門事件の写真」2分42秒
まさに人間性を無視した大虐殺です。心臓の弱い方は見ないほうが良いかもしれません。

中国政府は「天安門事件で死者はゼロ」といまだに言っています

http://www.youtube.com/watch?v=SRweSCSXigE




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中国はいかにチベットを侵略したか [オピニオン]

■『中国はいかにチベットを侵略したか』 マイケル ダナム著 ■

妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。
尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。
拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。
大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、
熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。
さらに高僧たちは「霊力で穴から飛び上がって見せろ」と嘲られ、挙句に全員射殺された。
おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれた。



■Tibet The Story of A Tragedy 「チベット 悲劇の物語」■
フランス3制作 56分(英語)
中国のチベット人抹殺の現実を知っておくべきです

http://www.youtube.com/watch?v=0VRneGYpaXc&playnext




■中国軍がチベット人を無差別に射殺(日本語字幕付)■

逃げる事もできない6歳から10歳のチベット人少年僧を無差別に射殺する中国軍
目撃した欧米人…「チベット人を野犬でも狩るかのように撃ち殺している」
http://www.youtube.com/watch?v=RwDG-L7P7Zo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=fYinWeqihtE










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時代おくれ /酒と泪と男と女  河島英五 [音楽]


時代おくれ / 河島英五






酒と泪と男と女





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ちあきなおみ…酒と泪と男と女 …カスバの女 [音楽]


ちあきなおみ 酒と泪と男と女






ちあきなおみ  カスバの女




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みなみらんぼう 「白いフリージャの匂う夕べに」 [音楽]


みなみらんぼう 「白いフリージャの匂う夕べに」



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日本というお母さんは難産して母体をそこなったが… [オピニオン]

samurai.jpg

 


ククリックド・プラモード (タイ国元首相 )

「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。
それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。
十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して
重大決意をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。」

( 十二月八日、現地の新聞「サイアム・ラット紙」において )



 ジョイス・C・レブラ女史(アメリカ、コロラド大学歴史学部教授)

大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。
日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。 今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。
そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。(中略)  さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段とが残ったのである。東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。
(「東南アジアの開放と日本の遺産」秀英書房、256~7ページ)

 


 ロスロップ・スタッタード(アメリカ、歴史学者)

 すでに四百年の間、連続的勝利によって、白人は本能的に自己の膨張は無限に継続するものと信ずるに至った。1904年の日露戦争以前には、自己の膨張が停止するというような思想は白人千人中の一人にも考えがおよばなかった。
(中略)1900年は、四百年間みなぎりきった白人潮勢の頂点であった。白人はその時、威名と実力の頂上に達したのである。その後わずか四年にして日本は猛然起って露国に抗し、旅順港に巨砲弾を浴びせて世界を驚かした。その刹那に白人の退潮が始まった。(長瀬鳳輔訳『有色人種の勃興』政教社、147,151頁)

 

ジョージ・S・カナヘレ(アメリカ、ハワイ日本経済協議会事務局長・政治学博士)

 日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事である。
(中略)  インドネシア人が軍事訓練を受けたことの意義は極めて重要なものであった。これが後のインドネシア革命軍の大部分の将校と何千の兵士となり、復帰してきたオランダ勢力と独立戦争を戦う際の基盤となった。
日本によって与えられたこのような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。

 


ラグ・クリシュナン(インド、大統領)

 インドは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈もした。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。(昭和44年「日本経済新聞」)

 


ラダ・ビノード・パール(インド、極東国際軍事裁判判事・法学博士) 

要するに彼ら(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の一七年間(昭和3~20年、東京裁判の審理期間)の一切を罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。・・・・私は1928年から1945年までの一七年間の歴史を二年七ヶ月かかって調べた。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。
それなのに、あなた方は自分らの子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」を教えている。
満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。
日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。あやまられた歴史は書き変えなければならない。(昭和二十七年十一月五日、広島高等裁判所での講演)





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『食人宴席―抹殺された中国現代史』 [オピニオン]

■文 化 大 革 命 当 時 の 中 国 の 人 肉 食 ■
『食人宴席―抹殺された中国現代史』 カッパ・ブックス
鄭 義 (著), Zheng Yi (原著), Ko Bunyu (原著), 黄 文雄 (翻訳)

http://chiquita.blog17.fc2.com/blog-entry-4775.html#more
(衝撃的画像あり、閲覧注意)


【 無 抵 抗 な 一 般 人 が 人民解放軍や紅衛兵によって虐殺され「食われる」】


事件の一端が明らかになったのは、中国・広西省武宣県である。
ここだけで「殺され、迫害によって死んだ人間は524人、その内、食われた者は百数十人。
武宣県の食人者は推定1万~2万人にのぼる」。ここでは上からの犠牲者割り当てに応じて、
走資派や実権派をデツチ上げ、「まず批判闘争宣言があり、糾弾集会を行い、その後、人間を殺して、
生きているままに人肉を削ぎ、生きている人間が絶命すると、
人間の心臓、肝臓、胆嚢、腎臓、胸肉、骨髄、太もも、足、筋、・・人間の骨肉を切り取り、削ぎ取って、
それを煮たり、揚げたり、炒めたり、そして酒にゆっくりと漬けたりして、さまざまな調理方法で、
豊かな献立にしたのである。また<人肉宴会>では酒を飲み、杯を交わし、論功行賞をした。」、
「こうして食人の嵐がうずを巻き、集会があるごとに闘争があり、闘争があるごとに死者が出て、
死者が出れば、かならず食われ、惨劇が繰り広げられたのだ」



現在の日本でもかなり禁書の部類に入る。
滅多に手に入る事は無いが中国語版の1/3程度の内容に抑えられているそうでであるから
是非中国語を完全翻訳して見たいと思ってしまう。

とはいえそれでも内容的にはかなり衝撃的な物が多い。
中国の人喰いの歴史を知りたい人には必読では無いだろうか

龍祥大隊事件では被害者が小派で殺人者が生きている内に肝臓を取り出したが間違えて
肺を取り出したのでもう一度肝臓を取ろうとすると目玉がギョロリと動いた
→結構肺と肝臓を間違えると言う事はあったらしい
 


殺人者への質問。
「過去に喰った人の肝臓はかまどで焼いた方がおいしいですか
 あるいは煮た方がおいしいですか?」
「勿論焼いた方がおいしいし、香ばしい。しかし、生臭い事もある」

人を殺してもすぐは体内の血があついので、素手では内臓を取り出せない

殺される前に一言
「絶命するまで待ってくれ。性器は死んでから切ればいい」
→生きたまま切られる。




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通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)-日本人皆殺しの地獄絵- [オピニオン]

■通州事件■


■1937年7月29日、北平(北京)東方の通州で中国保安隊による
大規模な日本人虐殺事件が発生した■


女性は強姦されて陰部にほうきを刺されて殺害されている者、喫茶店の女子店員の
生首や乳房がテーブルの上に綺麗にならべられていた、斬首した女性に対する死姦、
腹から腸を出されて殺害されている者、針金で鼻輪を通された子供など、
日本人の平均的倫理観から見て殺され方が極めて異常かつ残虐であったため、
この様子が同盟通信を通じて日本全国に報道されると日本の対支感情は著しく悪化した

■『通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)-日本人皆殺しの地獄絵-』
其の三 http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100901/p1
其の四 http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100915/p1
其の五 http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100929/p1

(衝撃的な内容ですので、気の弱い人は読まないでください)

■『通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)-日本人皆殺しの地獄絵-』■

▲それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。
頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。
このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき
微かに手と足が動いたように見えました。

▲目玉を抉り取ると今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。
そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。
縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。
ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。
人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。十メートル近くあったかと思いますが、
学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。

▲そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、
青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。そしてそれだけではありません。
別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。一尺づつぐらい切り刻んだ
学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。

▲このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると
「ヒーッ」と言って気を失ったのです。その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。
残った腸の細切れを見物していた支那人の方へ二つか三つ投げて来ました。
そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。






▲そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。
十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。
その娘さんを引き出して来たのは学生でした。そして隠れているのを見つけてここに
引き出したと申しております。その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。
体はぶるぶると震えておりました。

▲その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。
そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。
保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か
殴りつけました。そしてその着ている服を
いきなりバリバリと破ったのです。支那でも七月と言えば夏です。
暑いです。薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。

▲すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。
しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。
娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。
学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。そしてその集まった学生達
や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。
学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。
そして下着を取ってしまいました。娘さんは「助けてー」と叫びました。


▲そのときです。一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。
そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。
すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。
何かグシャッというような音が聞こえたように思います。
頭が割られたのです。でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。

▲娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。この男の人を引き離した
保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。
恐らくこの男の人の脳髄だったろうと思われます。そして二、三人の兵隊と二、三人の学生が
この男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。服が破けます。肌が出ます。
血が流れます。そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。

▲そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。
血がパーッと飛び散ります。その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。
腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。今度は胸の辺りを又突き刺します。
それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。又腹を突きます。胸を突きます。

▲暴虐無惨と申しましょうか。あの悪虐を言い表す言葉は
ないように思われます。この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、この屍体を三メートル
程離れたところまで丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、この気を失っていると思われる
娘さんのところにやってまいりました


▲この娘さんは既に全裸になされております。
そして恐怖のために動くことが出来ないのです。
その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。
そして陵辱をはじめようとするのです。
支那人とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、
これはもう人間のすることとは言えません。

▲ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。
どうしても陵辱がうまく行かないのです。
すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。
そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。

▲こんな姿を見ながらその近くに何名もの支那人がいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。
ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。
私とTさんは二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、 と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。

▲私はTさんの手にしっかりとすがっておりました。 目をしっかりつぶっておりました。
するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。
私は思わずびっくりして目を開きました。
するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。
何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。


【参考書籍】 「天皇さまが泣いてござった」 著者:しらべ かんが 教育社発行 定価1800円





▲当時、天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長で、7月28日の南苑戦闘に参加した後、
30日午後通州に急行して邦人救援に当たった萱島高証人は凡(およ)そ次の如く証言した。
「旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出
したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。
商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き
回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。」
 まさになぶり殺しではないか。

▲中でも悲惨を極めた旅館・近水楼での惨劇について通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を
務めた桂鎮雄証人の供述は次の通り。
「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙が
かけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされた
らしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。
陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。
帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。
女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。
折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。

▲中でも悲惨を極めた旅館・近水楼での惨劇について通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を
務めた桂鎮雄証人の供述は次の通り。
「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙が
かけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされた
らしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。
陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。
帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。
女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。
折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。

▲帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、
闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。
女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。
階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。
1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。
その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて
切断され ていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置
してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」


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事実と論理の力 真の学問的検証とは [オピニオン]



http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog079.html

■5.南京虐殺に言及していない蒋介石、毛沢東、国連決議■

 面白いのは、南京事件の翌年、中華民国総統・蒋介石が発表した
声明の中の「日本人の残虐行為」という一章だ。ここで特筆されて
いるのは、広東での空襲で何千人もの市民が殺されたという事件で
ある。もし、当時の首都南京で数万人を超す大虐殺があったなら、
それに言及しないはずはない。[1,P345]

 さらに傑作なのは、毛沢東が事件翌年に行った「持久戦につい
て」という講演である。ここで毛沢東は、南京の日本軍は支那兵を
殲滅しなかったため、後に反撃の機会を与えたのは、戦略上のまず
さであったと指摘している。[1,P339]

 国際連盟の諮問委員会は、南京陥落の半年後に、支那代表の声明
に基づき、「日本軍の侵攻によって脅かされている支那の独立と領
土保全」に奮闘する支那に対して同情の意を表する、という決議を
行った。ここにも、南京虐殺はまったく触れられていない。もし南
京で国際法違反の大虐殺が行われていたら、支那代表はすかさず、
それを利用したはずである。[1,341]

 東中野教授は、当時の代表的な公的記録(三等史料)を15種類
も調べて、そのいずれも、南京虐殺に触れていない事を確認する。

 ベイツの虐殺説が復活するのは、事件の3年後に刊行されたエド
ガー・スノーの「アジアの戦争」である。ここでスノーはベイツ説
を「その大部分は女子供」と改竄した。さらに5年後、43年に刊
行されたアグネス・スメドレーの「支那の歌声」では、ベイツ説を
5倍にして20万人殺戮と拡大宣伝した。このあたりから、虐殺説
の一人歩きが始まる。これらはすべて、四、五等史料でしかないの
である。[1,p368]

■6.事実と論理の力■

 東中野教授は、さらにベイツが根拠とした「埋葬記録」そのもの
にさかのぼって検証をする。面白いことに埋葬を担当した紅卍字会
は、日本軍、および、ベイツらの国際委員会の両方から、埋葬費用
を二重取りしていた事も明らかになる。両者の投入人員、処理期間
の記録はほぼ一致しており、そこから4万体という埋葬記録が水増
し請求であり、最大でも1万3千から5千の間である事を検証する。

 さらに、この1万数千という死体を、分析していくと、最終的に
 「日本軍の民衆殺戮を示す史料は、皆無なのである」[1,p416] 
という結論にたどりつく。

 この本は昨平成10年8月に出版されたが、それ以降、この著書
を批判論難するような本も論文も出ていない。南京虐殺を主張する
人々が一様に押し黙ってしまった感がある。これだけの根本史料を
突きつけられて、なおかつ「南京虐殺」の存在を証明する事ができ
るのか。厳密に学問的な手続きに則って組み上げられた事実と論理
の力を見せつけたようだ。

 両方の本を読み比べれば、プロガンダと真の学問との違いが、よ
く分かる。国際派日本人にお勧めしたい一書である。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog079.html


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平気で嘘をつく人々 [オピニオン]


http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog028.html

■1.あんな事はホラさ■

 元帝国陸軍大尉・向井敏明のもとに警察が訪れたのは、復員後1
年足らずの昭和22年であった。米軍憲兵が彼を捜しているという。
警察は暗に逃亡を進めたが、「自分は悪いことをしていないから、
出頭します」と答えた。

 妻は、虫の知らせで「もしや、百人斬りの事が問題になるので
は?」と聞いたが、向井は「あんな事はホラさ」と、事もなげに言
った。しかし妻の不安は的中し、これが夫婦の最後の会話となった。
向井は南京に連れ去られ、「百人斬り」をした戦争犯罪人として死
刑となったのである。[1,p71]

■2.百人斬り競争!?■

 昭和16年、東京日日新聞(毎日新聞の前身)の浅海記者は、南京
を目指す日本軍を報道する中で、次のような記事を書いた。

百人斬り競争! 両少尉早くも80人 (11.30)

・・・その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二
名の青年将校がある。無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、
一人は二十五人斬りを果たしたといふ。・・・野田少尉は無錫を
距る八キロの無錫部落で敵トーチカに突進し、四名の敵を斬っ
て先陣の名乗りをあげ、これを聞いた向井少尉は奮然起つてそ
の夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を切り伏せ
た。・・・

百人斬り”超記録” 向井106-105野田 
 両少尉さらに延長戦 (12.13)

 野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六
だ!」両少尉は”アハハハ” 結局いつまでにいづれが先に百
人斬つたかこれは不問、結局「ぢゃドロンゲームと致さう。だ
が改めて百五十人はどうぢゃ」

(向井少尉は)「俺の関の孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜
もろとも唐竹割りにしたからぢや・・・」と飛来する敵弾の中で
百六の生血を吸つた孫六を記者に示した。

■3.自己宣伝とゴマスリのための創作記事■

 山本七平は「私の中の日本軍」で、自らの従軍体験をもとに、こ
れが完全な創作記事であることを、徹底的に暴いて見せた。曰く

 日本刀で3人も斬れば、どんな名刀でも刃こぼれし、刀身は
折れ曲がり、柄ががたがたになる。まして、「鉄兜もろとも唐
竹割り」などということは、木刀でマキを割るのと同様に物理
的に不可能。(従軍した軍刀修理の専門家の著書から)[3,p7
1]

 「鉄兜」などという言葉は軍隊にない。日本軍では「鉄帽」
と言う[3,p96]。また「貴様」は兵隊用語であり、名誉や威厳
にうるさい将校は絶対に使わない。「向井少尉、貴公は」と言
うはずである。[2,p307]

 向井少尉は砲車小隊長であり、野田少尉は部下を持たない大
隊副官である。勝手に砲車や大隊長のそばを離れて、敵陣を襲
ったり、「飛来する敵弾の中で」新聞記者と話をしていたら、
「違命罪」で軍法会議にかけられる。[2,p179,p224]

 山本七平は、このような分析の後に、結局この記事は、浅海記者
が「飛来する敵弾の中で」一生懸命取材していますよ、という自分
の上司に対する自己宣伝と、「お宅の二少尉が日本刀を振りかざし
て駆け出せば、シナ兵の百人や二百人はバッタバッタでございます
よ」[2,p202]という陸軍に対するゴマスリであると結論している。
二人が浅海記者に何を語ったかは分からないが、こういう記者に出
会ってしまったのは、二少尉の一生の不運であった。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog028.html




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義和団の乱…柴五郎中佐 [オピニオン]

1900年 北京

義和団に襲われた公使館区域を守る多国籍軍の中心となった

柴五郎中佐と日本軍将兵の奮戦



■7.日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ■
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog222.html

 王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人
義勇兵の一人B・シンプソンは次のように日記に記した。

 数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍
は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこま
でも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵
を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵ま
れていた。公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シ
バ(柴中佐)である。・・・

 この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。
彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、
前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをす
べてやっていた。ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒し
ていることを感じる。[1,pp481]

 この後、王府を守る柴中佐以下の奮戦は、8月13日に天津
からの救援軍が北京に着くまで、2ヶ月余り続く。睡眠時間は
3,4時間。大砲で壁に穴をあけて侵入してくる敵兵を撃退す
るという戦いが繰り返し行われた。総指揮官マグドナルド公使
は、最激戦地で戦う柴への信頼を日ごとに増していった。イタ
リア大使館が焼け落ちた後のイタリア将兵27名や、イギリス
人義勇兵を柴の指揮下につけるなど迅速的確な支援を行った。

 6月27日には、夜明けと共に王府に対する熾烈な一斉攻撃
が行われた。多勢の清国兵は惜しみなく弾丸を撃ちかけてくる。
弾薬に乏しい籠城軍は、一発必中で応戦しなければならない。
午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げ
ながら北の霊殿に突入してきた。柴は敵兵が充満するのを待っ
てから、内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をした。敵は2
0余の死体を遺棄したまま、入ってきた穴から逃げていった。
この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大
いに鼓舞した。

 イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次の
ように記している。

 王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援
軍が送られた。王府で指揮をとっているのは、日本の柴中
佐である。・・・

 日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士
官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇
気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれに
つづく。しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog222.html






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国家とは国民が力を合わせて運行する船 [オピニオン]

★国家とは国民が力を合わせて運行する船だ。
国籍 は、その船の一員となるという意思表示である★

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog155.html



■1.税金を払っているのだから、投票権をあげるべき?■

娘 お父さん、ちょっと教えてくれない。難しい宿題が出たの。
在日外国人の地方参政権について、小論文を書きなさい、
というんだけど。

父 高校生ともなると、宿題も難しくなるね。先生は何か解説
してくれたのかい。

娘 ええ、日本に住んでいる外国人に対して、市長選や市議会
選挙などの投票権をあげようという事だって、教えてくれ
たわ。日本に住んでいて、日本人と同様に税金を払ってい
るのだから、投票権はあげるべきだって。

父 ほう。なかなか面白いことを言うね。税金を払っていれば、
投票権を持てる、というなら、裏返せば、税金を払ってい
なければ、投票をする資格はない、という事になる。とな
ると、うちの田舎のおばあさんは年金暮らしで税金を払っ
ていないから、投票権はとりあげるってことになるのか
な?

娘 そう考えれば、ちょっと変ねえ。確かに学生や収入の少な
い世帯で税金を払ってない人も、投票権はちゃんとあるわ
ね。

■2.税金を納めているなら、それなりのことはしてあげるべき■

父 税金を納めていない人にも、選挙権が認められたのは、イ
ギリスが1918年、日本では7年遅れの1925(大正14)年。ち
なみにアメリカでは、黒人の政治参加を合法的に排除する
ために南部諸州は選挙人資格として人頭税を導入していて、
これが完全に撤廃されたのは、なんと1960年だった。

 財産や収入と関係なく、すべての国民は、政治に参加す
べきだ、というのが、ここ1世紀ほどの民主主義の発達で
確立された普通選挙の大原則の一つなんだ。税金と選挙権
が関係あるように言うのは、この民主主義の大原則を知ら
ない人間の言うことだよ。

娘 でも、税金を納めているなら、それなりのことはしてあげ
るべきじゃないの?

父 してあげているさ。たとえば道路や公園を使い、消防署や
警察や裁判所にも守ってもらい、子供がいれば公立学校に
も入れてもらえる。これらはすべて税金によってまかなわ
れているんだ。だから、日本で生活したり、商売ができる、
というだけで、税金に見合ったサービスは受けているわけ
    だ。

■3.日本に生まれても投票権がないのは差別では?■

娘 税金と参政権とを関係づけるべきでない、ということは分
かったけど、私たちみたいにたまたま日本人の家に生まれ
た人だけが投票権を持てて、在日の人のようにこの日本で
生まれても投票権がないのは、差別じゃないのかしら。

父 いや、それもちょっと違うな。約53万人いる在日韓国
人・朝鮮人でも、毎年1万人位が帰化して日本の国籍をと
っている。国籍さえとれば、地方参政権どころか、国政で
の選挙権も持てるし、国会議員にだって立候補できる。

 国籍をとっているのは在日韓国人や朝鮮人ばかりではな
い。アメリカから来たお相撲さんの小錦や武蔵丸も帰化し
ている。ブラジルから来たサッカーのラモス・瑠偉や、中
国出身の卓球の小山ちれは、日本代表として活躍している。
みんな私たちと同じ立派な日本国民だ。お父さんの会社に
も、中国出身の技術者がいるが、彼も奥さんともども帰化
して、我々の仲間として立派に働いている。

 日本国民というのは、生まれや人種、民族とは関係ない。
日本の国籍をとり、日本国民として生きていこう、という
意思表示をした人のことだ。もちろん、帰化を許されるに
はそれなりの面倒な手続きや要件がいるが、それは技術的
な問題で、必要に応じて改善すればよいことだ。

■4.なんで国籍にそんなにこだわるの?■

娘 なんで国籍にそんなにこだわるのかしら。お父さんの本籍
は九州なのに、東京都民として選挙権を持っているじゃな
いの。外国人だって、本籍は外国でも日本に住んでいるな
ら、選挙に立候補したり、投票したりしてはなぜいけない
のかしら。

父 (苦笑して)本籍とはうまい理屈を持ち出したね。それで
はこう言ったら、ピンとくるかな。国とは我々国民が力を
合わせて、運行している自家用船のようなものだ。その目
的地や航海ルートを決めるのは、我々オーナーの責任であ
り、権利でもある。間違った航路をとって、暗礁に乗り上
げたら、船底に穴が開いて、皆一緒におぼれてしまう。
その大事な舵取りを選ぶというのが、選挙なんだ。

 在日外国人とは、この船にたまたま乗せて貰っているお
客さんのようなものだ。当然、サービスを受けるのだから、
税金という代価を払って貰わねばならない。しかし、これ
は旅客船ではないから、行き先について、注文をつける権
利はない。違う目的地を目指したいなら、他の船に乗り換
えるか、自分自身の船で行って貰うしかない。

 国民とは船のオーナーなのだから、燃料代や修繕のため
のお金を出すことはもちろん、嵐の時や、海賊が襲ってき
た時には、みんなで船を守らなければならない。お客さん
は別に自分の船があるのだから、危なくなったら自分の船
に戻ればいいが、我々はそうはいかないんだ。

 英語で、"We are on the same boat."という言い回しは
習ったかい? 「我々は同じ船に乗っている」ということ
は、無事に目的地に着くのも一緒、沈むのも一緒、という
ことだ。日本語にも「一蓮托生」、つまり同じの蓮の葉に
乗って身を託している、という言葉がある。国家とはそう
いう運命共同体なんだ。国籍をとる、ということは同じ船
の一員として一緒にやっていきます、という宣言なんだ。

■5.ヨーロッパではお互いに地方参政権を認め合っているのに■

娘 でも、先生が言っていたけど、ヨーロッパ連合の国々では、
お互いに地方参政権を認め合っているそうよ。このグロー
バル化の時代にいつまでも国にこだわるのは、古いんじゃ
ない?

父 EU、ヨーロッパ連合というのは、国をなくそうといこと
じゃなくて、ヨーロッパの国々が一つのもっと大きな国に
まとまろう、ということだ。アメリカの各州がまとまって、
アメリカ合衆国になるようなものだ。船で言えば、お互い
をロープで結び合って、一つの船団として運命共同体にな
ろう、ということなんだ。

 だから、EU諸国どうしでは地方市民権を認めても、た
とえばドイツにいる200万人ものトルコ人労働者には、
地方参政権は与えられていない。

■6.韓国と日本でお互いに地方選挙権を与え合えば■

娘 韓国の金大中大統領が、韓国と日本でお互いに地方選挙権
を与えあおうと言ってたそうなんだけど、それならEUと
同様、お互い様でいいんじゃないかしら。

父 韓国と日本とが、EU諸国のように通貨や経済も一緒にし
て運命共同体としてやっていこうという意思があるなら、
それも結構だが、それが何もない現状で参政権だけ与えあ
うというのは、いたずらに摩擦を増やすだけだと思うよ。

 だいたい在日韓国人・朝鮮人は約53万人もいるが、在
韓日本人はわずか300人だ。これではとても「お互い
様」などとは言えない。たとえば、在日の人が多く住んで
いる町では、その票だけで市会議員になれる可能性がある。
普通の議員でも、固まった票を持つ在日の団体が強硬に反
対することは、主張できなくなるだろう。その影響力は全
然違う。

 ちなみに、在日の人たちは本国での被選挙権を持ってい
る。1988年の韓国での国会議員選挙では民団という在日韓
国人団体の副団長が、全国区で出馬して当選している。北
朝鮮の方は、今でも在日の国会議員が7人いる。本国で国
会議員をやっている人たちが、日本で地方政治を左右する
ことになる。

 一つの船の中で、別の船の乗組員達が集団で強い発言権
を持ったら、まとまりがつかなくなる恐れがある。

娘 でも、国政とは違って、地方政治なんだから、そこの住民
の意思を尊重することは当然じゃないの?

父 国会議員の選挙が、この船で舵取りをする人を選ぶという
ことだとすれば、地方選挙は、船の一部、たとえばエンジ
ン・ルームの責任者を選ぶということだ。エンジン・ルー
ムの責任者が、自分の部屋のことだけ考えて、エンジンが
うるさい、熱いから止めろ、と言われては困るんだ。

 地方政治とは言っても、船全体の事を無視して地域のエ
ゴに走ったら、船は進めなくなってしまう。国政と地方政
治とは別々だ、などとは言えないよ。

■7.強制連行されたんだから■

娘 理屈はそうかもしれないけど、現実に在日の人たちは日本
に強制連行されて、帰れなくなった人たちでしょう。その
おわびとして、地方参政権くらいあげてもいいんじゃない
の?

父 おやおや、先生がそんなことを言っていたのかい? その
意見は、論理としても、事実としてもおかしい。まず論理
としてだが、強制連行されたのがたとえ事実だとしても、
参政権を代償にするというのはお門違いだ。ある船にさら
われてきた人たちが、その犯罪の補償としてエンジンルー
ムの管理者を選ぶ投票権を与えよ、というのと同じだ。さ
らわれたのなら、きちんと謝罪し、もとの船に返し、その
間に発生した損害を補償せよ、というべきだろうね。

 事実としてもおかしい。戦争が終わったときに日本にい
た朝鮮の人々は約200万人と言われている。在日韓国青
年会が一世の人たちに渡日理由をアンケートで調査したら、
経済的理由が39.8%、結婚・親族との同居が17.3%、徴兵・
徴用が13.3%、その他が20.2%だった。

 この徴兵・徴用を「強制連行」などと言っているのだろ
うが、それは昭和14年7月にまず内地の日本国民に対し
て行われたことで、朝鮮半島に適用されたのは、終戦わず
か1年前の昭和19年9月からだ。

 戦争末期を除いて、内務省は朝鮮半島からの渡航を厳し
く制限していたので、不正渡航で摘発された朝鮮人の数は、
戦時中の昭和17年でも4,810人にのぼっている。豊かな
生活を夢見て潜り込んでくるのは、今の中国人の密航者と
同じだ。徴兵・徴用以外の90%近くの人々は、自分の意志
で日本に来たんだよ。

 さらに戦後、昭和20年9月から、24年にかけて、日
本政府による朝鮮人の引き揚げ作業が行われた。この時、
帰りたい人は、基本的にすべて帰させたんだ。200万人
のうち、150万人ほどが帰国している。現在、日本にい
る在日の人たちは、この時に自らの選択で日本に残った人
か、その子供や孫達なんだ。だから、日本に強制連行され、
帰れなくなった人々、などというのは、事実ではないし、
これらの人々を侮辱する言い方だと思う。

 こういう人たちはすでに半世紀も我が国に住んでいる。
2世、3世の9割の人々は日本人と結婚し、毎年1万人も
の人々が日本国籍を取得している。我々はこういう人々を
同胞として、喜んで迎え入れるべきなんだ。

■8.なんで日本に帰化しないの?■

娘 それなら、なんでみんな日本に帰化しないのかしら。

父 自らの祖国に愛着を持ち、忠誠を誓っている人も多いだろ
う。それはそれで立派なことだ。そういう人々は同胞では
なく、尊敬すべき隣人としてつきあっていくべきだろうね。

 もう一つの理由は、在日韓国人というのは法的には日本
人や韓国人よりも恵まれた地位にあるんだ。在日の人は就
労ビザなしで日本でも韓国でも自由に行き来して仕事がで
きる。日本人にも韓国人にもない特権だ。

 また韓国に住んでいれば兵役の義務があるが、在日なら
それもない。これだけ恵まれた立場で、普段は日本人と同
様の生活ができるなら、わざわざ面倒な国籍取得をしよう
という気も起こらないのは人情だろう。

 逆に、そういう特権を捨ててまで、きちんと日本国籍を
とって、日本国民として生きていこう、という人々の決意
を高く評価したいね。日本に生まれて、日本人としての自
覚もないままに、俺は地球市民だ、などと言っている人た
ちより、この船で一緒に航海していく同胞としてはるかに
頼りがいがあるよ。

娘 うーん。理屈としては分かったけど、なんかもう一つピン
とこないなあ。

父 それはお前が、国家の大切さ、有り難さを体験として実感
したことがないからだ。日本という温室の中で甘やかされ
るだけで、小さな国を一生懸命守っている国民の苦心・苦
労も知らなければ、国家の価値を実感することはできない。
まずは国際派日本人養成講座でスイス国民やフィンランド
国民の苦闘の歴史を読んでごらん[a,b]。

 この問題にどういう立場をとるか、それはお前自身の責
任だが、いずれにしろ、しっかりした論理的思考力と最低
限の知識をベースにして、自分の立場を築いて欲しい。
「税金を払っているから参政権を」と言われて「なるほ
ど」と納得してしまうようでは、我が国の民主主義すら守
れないよ。お前たちの世代は、これからこの日本丸を運行
して国際社会の荒波を渡っていくんだから、それだけの力
量を今の内にしっかり養って貰いたいな。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog155.html

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関東震災直後の混乱の中で、朝鮮人独立運動家たちは日本人被災民に対して無差別テロを仕掛けた [オピニオン]

■震災下のテロとの戦い■
http://archive.mag2.com/0000000699/index.html


 関東震災直後の混乱の中で、朝鮮人独立運動家たちは被災民に対して無差別テロを仕掛けた。


■震災下のテロ■

震災前から朝鮮の独立運動家たちが、様々なテロ攻撃を計画し、実施してきていた。
ちょうど、アメリカでの9.11事件を引き起こしたイスラム過激派のテロのように。

そこに発生した関東大震災を好機到来として、朝鮮人テロリストたちは一般家屋への放火や、一般の日本人民衆を殺害し、混乱を増大させて、独立運動を盛り上げようとした。

自衛のために、東京・横浜の各所で自発的に自衛団が作られ、一部の地域ではテロリスト集団との戦闘まで行われた。またその過程で、過剰防衛により殺害された朝鮮人もいた。

この混乱を抑えるために、戒厳令が敷かれ、軍・警察が騒乱を鎮圧した。
政府は「朝鮮人は全部が悪いのではない」と必死で政情安定に努めた。



■8.震災下のテロとの戦い

 工藤氏の調査によれば、震災直後に東京とその近郊にいた朝鮮人の総人口は約9800人。

ここから軍・警察に収容された6800人を除くと約3千人。

この中に、震災被害者とテロリストとして殺害された人数が含まれる。




先に紹介した越中島の糧秣廠の爆弾攻撃だけでも3千人が死んだと言われている。

そして同様の放火事件が各地で起きている。殺害された日本人も、数千、数万という規模になるだろう。



震災下の混乱の中で、朝鮮人テロリスト集団が日本人被災者に対して無差別攻撃を仕掛け、せっかく大震災を逃れた被災者たちが多数殺された。市民を護るべく、自発的に住民の自警団が立ち上がり、テロリストたちと戦った。

その過程で、当然、無辜の朝鮮人も巻き添えになって殺された。そういうテロとの戦いが、震災下にあったのである。 





◆関東大震災―「朝鮮人虐殺」の真実◆ 

                            工藤 美代子【著】産経新聞出版・


あれは本当に「虐殺」だったのか?彼らの狙いは、皇太子だった!

震災に乗じて半島から襲来したテロ集団の実態をあばき、悲劇の真相を糾明する衝撃のノンフィクション。



【これが真実です】

◆当時、実際に朝鮮人による日本人への襲撃があったから、殺傷事件が起きた

◆朝鮮人テロリストの襲撃から家族や町内を守るのは当然だった




■まるで良質のミステリー 、ぼくが今年読んだノンフィクションのベスト1だ。

関東大震災―「朝鮮人虐殺」の真実   工藤 美代子【著】

(産経新聞出版・1890円) 評・花田紀凱(かずよし)「『WiLL』編集長)


第1章 大正十二年九月一日―無間地獄の帝都
第2章 液状化する大正時代―朝鮮人激増
第3章 「流言蜚語」というまやかし―自警団は「正当防衛」だった
第4章 「襲来報道」を抑えた後藤新平の腹―戒厳令下の治安担当者たち
第5章 揺るぎない前提として書かれた虚構―「戒厳令違法説」と「朝鮮人虐殺」
第6章 トリック数字がまかり通る謀略―「虐殺」人数の嘘
第7章 「Xデー」は摂政宮御成婚式―波状攻撃を画策したテロ集団の実態
「あとがき」にかえて より精緻な実証へ―「日韓併合」百年に向け











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ムルディカ [オピニオン]

■4.植民地復活を狙うイギリス、オランダ■
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog036.html

■1.カリバタ国立英雄墓地に祀られた日本人■

 ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地は、日本軍降伏後、4年
5ヶ月におよんだイギリス、オランダとの独立戦争で、特別な功労
を立てて戦死した人々が祀られている。この中に11名の日本人が
一緒に手厚く葬られている。[1]

 1945年8月15日の日本軍降伏後も現地に残留して、インドネシア
独立義勇軍に身を投じた人々は、1~2千人程度と推定されている。
400名程度が戦死され、そのうちの32名が各地区の英雄墓地に
祀られている。また独立50周年となった平成7年、残留日本兵
69名に対し、渡辺インドネシア大使から感謝状が贈られ、スハ
ルト大統領は官邸に招いて、お礼を述べられた。[2,p109、3]

 これらの人は、何を思って、異国の地に留まったのだろうか。

■2.独立への願い■

 インドネシアがオランダの植民地となったのは、1605年、それ以
来、3世紀半にわたって、人口わずか0.5%のオランダ人が全生
産額の65%を独占するという収奪が続く。

   1905年に、日本がロシアを破ったことは、アジア人もまた
  西洋をうち負かすことができるほど強くなれるという信念を
  強化させた。それ以降、インドネシア人は、大国として発展
  する日本にいっそうの注目をそそぎはじめた。(インドネシ
  アの歴史家サヌシ・パネ、[4,p242])

 独立を願う民衆の間には、いつしか、「いつか北から同じ人種が
やってきて、とうもろこしが芽を出して実をつけるまでに(約3ヶ
月半)インドネシア人を救ってくれる」という予言が生まれた。




■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

日本軍が降伏した1945年8月15日の二日後、スカルノとハッタはすかさず独立宣言を行う。
18日には、インドネシア共和国憲法を採択し、それぞれ大統領、副大統領に就任した。

しかしイギリスとオランダは、植民地の復活を狙いインドネシアに軍隊を派遣してインドネシア人を弾圧した

オランダとの独立戦争は1949年12月までの4年5ヶ月も続いた。
兵員こそ200万人もいたが、武器は日本軍から手渡された数万挺の小銃が中心である。

オランダ軍は都市への無差別爆撃なども行い、80万人もの犠牲者、1千万人を超える負傷者が出た。
インドを始めとするアジア諸国がオランダを非難し、国連安保理事会や米国議会も撤兵勧告を行った。
全世界の世論に押されてオランダは再植民地化を諦めたのである








市来龍夫ジャワに散る


1949年1月3日ジャワ東部のスメラ山麓ジャサリ村で、インドネシア国軍BRIGADE-S旅団旗下の特別ゲリラ隊と完全武装のオランダ1個中隊との間で、激しい戦闘が行われた。

特別ゲリラ隊は市来龍夫(現地名アブドラ・ラハマン)を隊長とする日本人・インドネシア人の混成部隊で、マグレサリーを拠点としてゲリラ戦を行っていた。
 
当時はインドネシア独立も相当に危ない情況と なり、首都ジョグジャカルタはオランダに奪われいて、スカルノ・ハッタ両氏はオランダに逮捕されてしまう。 


戦況は泥沼で、前年12月には国連安保理から即時停戦を求められていた。


※この1月3日の戦闘に参加した広岡氏の手記より抜粋します。



ダンピット村説は、この日の戦闘にこそ参加していたなかったが、特別ゲリラ隊小野氏の手記が、元になっていると広岡氏は指摘している。

前年末よりオランダ軍が、マランへ急進攻してきて激しい戦闘となった。 オランダ軍は戦車に戦闘機とインドネシア軍を圧倒していた。 

逃げてきたインドネシア軍の兵を見ると、武器を持っていない。「どうしたのだ?」と聞くと「敵の進撃が速すぎで武器は埋めてきたと」と言うではないか。 
「武器もなくてどう戦闘するのだ」というと敵さんから奪うと嘯いていた。  

特別ゲリラ隊はこれはイカンと思い、マランへ牛車10台と住民を動員して、埋めてあった武器と砲弾を取り出しに行った。 ひとりの犠牲も無かったのは幸運な事だった。 この後各方面から、この砲弾をもらいに来たという。


元旦には全員で椰子酒で乾杯して、東方を拝み武運長久を祈った。 そしてトレン街道に戦車地雷をしかけて敵装甲車とトラックを吹き飛ばした。

その報復だろうか、完全武装の1個中隊がマグレサリー拠点を目指して進撃中との情報が入った。

敵の情報収集もなかなかである。 


マグレサリーはスメラ山麓の人里では最奥部。 特別ゲリラ隊の秘密拠点あったのに、どうして分ったのだろうか.。 薄気味悪さを感じつつ1月2日は、ボポンの村長宅で一泊して手厚いもてなしを受けた。味方は約35名、重機関銃2丁と摘弾筒2筒、小銃が10丁、戦車地雷2個という劣勢である。
 

夜になって見張りを厳重にして、日本人だけで集って明日の作戦を話し合ったが、妙案もなかった。 

1月3日朝ジャサリ村を横切ろうととすると、敵は村一帯にすでに展開していた。 

ボポン村出発時に次期隊長となる杉山は、ジャサリ村に下る事に反対したが、市来は距離わずかなジャサリまで下りても問題ないと判断した。 

敵とは逆方向へ行くのだから問題ない、と思うのは当然だった。 だが杉山のカンは鋭かった、なぜか敵がいる2つの部隊に挟撃されたのかもしれない。  

いきなり重機関銃同士の激しい撃ち合いが始まる。 味方の機関銃は腐敗が激しくて度々弾づまりを起こす、その度にハンマーとドライバーで弾を取り出して射撃を続けるこんな有様だった。


摘弾筒に撃つように催促すると「弾をもってる兵がいなくて(逃げた?)弾無しだ!」こんな怒鳴り声が返ってくる、敵はいよいよ2丁の重機関銃を取りか囲むように肉薄してくる。 このままでは全滅だ。

ふと気が付くと市来隊長の軍刀を持っている兵がいる。 


「隊長の軍刀をどうしたのだ?」すると「隊長は私の小銃を取り上げ、かわりに軍刀をあずけて小銃隊の方へ走っていきました」と言うではないか、慌てて「市来さーん」と3連呼したが返事は無かった。

味方小銃隊は、敵味方の重機関銃同士の間に挟まれて、身動きが取れなくなっていた。 

市来龍夫は味方の小銃隊を援護せん、と弾丸驟雨の中を走っていったのである。 

だれかが戦車地雷を敵陣に投げ込んで物凄い爆発音がした。特別ゲリラ隊も引き上げを始めた。 

市来龍夫は小銃隊と合流したのちに、敵情はいかにとトウモロコシ畑から顔を上げたとたん、頭部に 被弾して即死。 痛恨な事にこの日の唯一の戦死者になってしまった。 

 
ここからがさらに市来の受難だった。 後送するようにインドネシア兵2名に頼むが、あまりにも激しい戦闘だったために市来の亡骸をがけ下におとしてしまったようで、どうにもならないと判断してそのまま逃亡してしまった。 


 マグレサリーの拠点に帰ると〝市来隊長はダンピット村で負傷手当中〟との情報があったので人を派遣してみるが、一向にその様な事は無く、特別ゲリラ隊はあせりはじめていた。

1月4日・5日と再びジャサリ村(ボポン?)を捜索するが手ががりなし、6日の朝なってやっと市来龍夫の亡骸が見つかった。 やむをえずその場でイスラム式に埋葬した。


マラン市の英雄墓地に分骨されたとの説もあり。

市来龍夫43才、大東亜開始前よりラジオを通じて、インドネシア国民に独立を呼びかける放送をしていたという。 そして日本がはたせなかった約束を果すべくインドネシア独立戦争を戦った。  彼が見たかった栄光の日、インドネシア独立のわずか10ヶ月前の事であった。




インドネシアと市来龍夫


市来龍夫は、明治39年熊本県人吉の多良木生まれ、熊本士族の子孫である。 
子供のころからおとなしくて成績の良い子だったが家庭は複雑で母姓の樅木(もみのき)を名乗っていた期間の方が長かった。小柄だが目の大きな男、市来を知る人は声をそろえて言う。

昭和3年にはスマトラ島のパレンバンに渡り、写真技師として勤めていた。 母への手紙の中で「自分は人より少し多く感じて、人より少し多く悩む」「真面目に働いていれば、いつか道は開ける」と書いているのは彼の人柄を偲ばせる。

インドネシアの為に戦った市来だが、インドネシアの第一印象はあまり良くなかったようで「南洋は野獣の集会のようだ」とコキおろしている。 インドネシア人、オランダ人、華僑全てに呆れていたようだ。

その後にジャワ島のバンドンに移り住むが、人吉から呼び寄せた弟が自殺してしまうなど不幸があり。何となく邦人社会から離れていった。


そしてイティというスンバ娘の家のあるスメダンに転がりこんだ。 
スメダンはバンドンよりさらに山奥にある町イティはおとなしくてでしゃばらない娘(おそらく市来の知人証言)写真を見る限りでは痩身で美人、市来同様に目の大きな娘です。
その後はバスの車掌をしたり、エロス写真館などにも勤めたが、長続きはしなかったようだ。

しかし、この頃からインドネシア人に対する感情が変わってきたのではないだろうかと思う。

市来は時々バンドンの日本人会館へやって来て日本の新聞を読み、インドネシア語に訳して地元の新聞に匿名で投稿していたという。


独立戦争中に出会った日本人は、市来のイ語が現地の人間よりも上手かったと驚いていた。
この頃からますます日本の南進の期待が高まり、市来の投稿もオランダ当局のマークするところとなる。
市来はイティを連れてジャカルタへ移り、〝日蘭商業新聞〟の記者となった、そこで盟友となる吉住留五郎と知り合う。


市来は一時所要で帰国するが、オランダ政府によって危険人物と見なされて、ビザ発給を拒否される。
イティを残してきた市来の気持はどんなに切なかったろうか想像も及ばない。
やがて市来や吉住は、愛国社の岩田愛之助と交流を持つようになる。

岩田は官・政・軍の黒幕的存在の大物である。 岩田は市来がどんな大物にもお世辞を言わない実直さを気に入っていたという、市来も驕らない岩田の性格を敬愛していた。

そして岩田はイティが困らぬようにと人脈を通して、ジャカルタで幾らかの金銭が渡るように助けたと言われる。
市来はこの頃に東京外語でイ国語の教師をしていたとの説もあるが、事実のようで他にも数人が通訳としてジャワに派遣されている。


午前中は外務省に、午後は参謀本部第二課に出勤していた。 参謀本部では中野学校出身の柳川宗成大尉と机を並べている、おそらく油田のあるパレンバンに詳しい事とイ国語に通じていた市来の能力と経歴を求められたのであろう。そしてラジオを通じてインドネシア国民に独立を呼びかける放送を作っていた。


運命の昭和16年12月8日、日本は開戦したのだが、柳川大尉は「市来さん第二の故郷に帰ろうや」とインドネシア行きをうながしたのである。市来は16才年下の女性と結婚したばかり、柳川大尉も新婚であったというから運命は残酷なものだ。



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男が本当に好きなもの [文学]




男が本当に好きなものは二つ――危険と遊びである。


そしてまた、男は女を愛するが


それはもっとも危険な遊びであるからである。


ニーチェ

 


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黒木メイサ lol! [音楽]

黒木メイサ  lol!




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女とは… [文学]



私は私が男でないことを嬉しく思います。
男だったら、私は女と結婚しなければなりませんもの。  

                       スタール夫人




男にとっては今日一日だけの浮気心にすぎないものに、
女はその一生を賭ける。

                        モーリアック




女はたとえ百人の男にだまされても、百一人目の男を愛するだろう。

                          キンケル




命と引き換えに金を欲しがるのは強盗であるが、女はその両方とも欲しがる。

                           バトラー




「あなたは愛してるって言ってくれたことがないのね」
「そんなこと知ってると思ってた」
「女は、それを聞きたいものなのよ」

                       グレンミラー物語




女性が弱いというのは嘘である。
世の中に何が強いと言って、無神経な事ほど強いことはない。

                          亀井勝一郎





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女の中に女を解き放つ…ツァラトゥストラかく語りき [文学]



ここにはまことの男が少ない。だから、女性が男性化する。

つまり、本当に男らしい男だけが女の中に女を解き放つ。


                                ―「ツァラトゥストラかく語りき」―ニーチェ

 


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播磨潟なだのみ沖に漕ぎ出でて…西行 [和歌、短歌、俳句]


播磨潟(はりまがた)なだのみ沖に漕ぎ出でて


あたり思はぬ月をながめむ

                                            
                                  西行



播磨潟の灘の沖に舟で漕ぎ出て、周囲を気にする必要のない月を心ゆくまで眺めよう



                                  
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ツァラトゥストラはかく語りき  [古典文学]



ツァラトゥストラはかく語りき




「すべての神々は死んでいる。
今こそわれらは超人の誕生を切望する。

……私は君たちに超人を教えよう。

人間は超克されるべきものである。
人間を超克するために君たちはいかなる努力をなしたか?」



「献身の理由を天空の彼方に求めようとせず、
この地上にいつの日か超人の生まれ出る日を期待しつつ、
自身を大地のために捧げようとする人びとを私は愛する。

……今こそ人間は人間自身の目標を樹立すべき時である。
今こそ人間がその至高の希望の種子を播くべき時である。

……兄弟たちよ、私に告げよ、もしも人類にまだ目標がないとするならば、
人類自体もまた、存在するとは言えないのではないか?……」





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古今集 藤原敏行朝臣 [和歌、短歌、俳句]

古今集




秋立つ日よめる              




秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる




藤原敏行朝臣

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「ありがとう」って言いそびれたヤツいる? [オピニオン]

「ありがとう」って言いそびれたヤツいる?

大切な人に「ありがとう」って感謝の言葉、言ってますか?


親、奥さん、夫、兄弟、友人、知人…


あなたの周りには、あなたにとってとても大切な人がたくさんいると思います


そんな人達に「ありがとう」…という、あなたの本当の気持ちを伝えていますか?


そんな人達と急の別れで、あなたの気持ちを伝えることができないで、
永遠の別れをしてしまうかもしれません


生きている「いま」…を、大切に…












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マスカレード [音楽]

カーペンターズ  マスカレード

THIS MASQUERADE










ジョージベンソン  マスカレード


This Masquerade - George Benson (1976)








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ジムノペディ - エリック・サティ [音楽]

Gymnopedie - Satie

ジムノペディ - エリック・サティ




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ヨーヨーマ 無伴奏チェロ組曲第一番(バッハ) [音楽]


Yo-Yo Ma (ヨーヨーマ) 

Bach(バッハ)Cello Suite No.1(無伴奏チェロ組曲第一番)




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死刑台のエレベーター  マイルスデビス [音楽]


Elevetor to the Gallow

死刑台のエレベーター  マイルスデビス




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ヘレンメリル   You'd Be So Nice To Come Home To [音楽]



Helen Merrill with Clifford Brown / You'd Be So Nice To Come Home To




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